「小鹿純子」が中国のファンに伝えたいこと
蔡:私は荒木さんの資料を調べたんですけれども、最初は荒木さんは歌手としてデビューしてその道を行きたかったということですが、なぜ女優になったのでしょうか?
荒木:もともと高校生の時にオーディションを受けて、歌手になったんです。日本の芸能界というところは、大人になったら女優に転換していくというのが普通だったんです。だから私も二十歳ぐらいになった時にそろそろ女優として活動しようと思いました。その初めての主演のドラマがこの「燃えろアタック」というドラマだったんです。
蔡:「燃えろアタック」という連続ドラマにはどういう風に出会ったんですか?
荒木:当時は日本でスポーツもの・根性もの・負けない精神で頑張るというドラマがすごく流行ってたんです。それでバレーボールのドラマを作るために、本の作者が何人かのタレントに会いに行ったそうです。それで私の所にも来てくださったんですが、私は痩せてもいないし、しっかりとした顔つきとか体格で、身長も小さくて153cmしかなくて。
蔡:失礼ですが、主役には不向きそうですよね。
荒木:でもその作者は私に会った途端、この子はこのドラマにピッタリだ、絶対根性があるからこの子で行きたいということを言ってくださったんです。ただ、私はスポーツはやっていて、足も早かったし、陸上もバスケットボールもしていたんですが、バレーボールは上手じゃなかったんです。
蔡:私の知ってる範囲では荒木さんは学生時代バスケットボールをやられていたんですよね。ただドラマではバレーボールだったと。
荒木:ドラマでバレーボールをやるとなった時には物凄くレッスンしました。身長185cmくらいのオリンピック選手だった方に特訓されるんです。だから本当についていけないし、でも若かったので結構すぐできるようになったんです。
ドラマの中でオリンピックと同じように、世界大会に向けて物語を書いてあったんですけど、日本がモスクワオリンピックにいけないことで、物語が全部変わってしまったんです。でも私はお母さんと育ってないので、物語がお母さんを追いかける、お母さんを探すための親子ものに変わったことで、ものすごく気持ちを入れやすくなったんです。スポーツだけではなくなったのが中国の皆さんにも感動を与えたような気がします。
蔡:現実のバレーボールにそんなアクションはないと思いますけれども、中国語で「晴空霹靂」というアクションが人気で、日本ではなんと言いますか?
荒木:ヒグマ落としと言います。私はドラマの中では北海道の出身なんです。ヒグマがすごく有名なのでヒグマ落としという名前になったんです。中国の皆さんは「晴空霹靂」と言うと皆さんワーってなるんです。
蔡:「晴空霹靂」はバレーボールにないでしょう? でも面白くて。もう一つ中国で流行ったのが、中国語で「幻影遊動」という姉妹二人がクロスする技。後もう一人、面白いのが花子かな?太ってる人、覚えています?
荒木:今もあのままですよ。
蔡:本当ですか?あまり変わってない?よくあの花子と連絡してるんですか?
荒木:よくではないですけど、静岡にいるんです彼女。静岡でお仕事をするといつも
彼女が私のテレビを見てくれて、会いに来てくれって。
蔡:私も会いたいな、本当に会いたい。
荒木:ドラマの中にちょっとふくよかでホッとする女の子って必ずいるじゃないか。そのタイプでした。
(中略)
荒木:このドラマがちょうど中国でテレビが普及する時に放送されたから、とても印象強くて、その思いが40年ぐらいずっと続いてるわけですよね。あの時には20歳になるかならないかぐらいで、もう40年も経ってるから。
蔡:荒木さんとしては中国で大ヒットになって、人気になってということはいつ頃ご存知になったんですか?
荒木:私は結婚する直前に女優を辞めると記者会見をやったんです。そしたら東京でやったのに記者の人の半分が中国の皆さんだったんですよ。なんでこんなに中国の人が来てるのかがわからなくて。しかも、泣いて泣いて、辞めないで欲しい、なんで辞めるのと日本人より中国人の方が言ってきて。だから私のパートナーは、すごく中国の皆さんに憎まれてましたよ、どうして辞めさせるんだ?と。
中国の皆さんが、私のファンがいっぱいいるのに、こんな時に結婚して辞めるとはどういうことなんだと言うので、記者会見がちょっと不思議な感じでした。
蔡:荒木さんは記者会見の前にドラマはもちろん荒木さんの名前も中国で大ヒットとなったことは全然知らなかったんですか?
荒木:全然ではないんです、ファンレターが少し来ていたんですよ。でももうそんなにすごいことだとは思ってなかったんですよ。中国にも2回ぐらい仕事で行ったんですが、確かに物凄い人が追いかけて来てくださったんです。
蔡:初めて中国に行かれた時は、どういう印象を持たれましたか?
荒木:上海に行ったんですけれども、中国の皆さんは日本人と顔も似ていて、私の故郷は九州の佐賀県なんですが、その故郷に上海はとても似ていました。とても穏やかで、オシャレもあまり色がカラフルではなくて割とおとなしい色の洋服で、それが少し田舎の私の故郷と似てる感じがしました。
蔡:なにか美味しかったものはありますか?
荒木:小籠包です。食べ物がコースでものすごくテーブルいっぱいに並ぶんですよね、お野菜の料理がたくさんあって。日本も昔はテーブルの上にたくさんお食事が並んで家族でお話をしながらみんなで楽しく食事をしていたのが、今はもうそういうことがなくなってきて、子供達は子供達、お父さんはお父さんで分けて食べるになりました。それで、上海に行った時に、お皿がいっぱい並んで、みんなで美味しいねとか今日あったことを話しながら食事をしたことが私にとってはとても懐かしく嬉しい時間でした。
今でも中国の皆さんはみんなで食べるでしょう。上海へ初めて行った時のその光景を覚えていますね。
蔡:話は変わりますけれども、「燃えるアタック」のドラマが日本はもちろん中国でも大ヒットになって、我々ファンとしては荒木さんに続けてほしかったんですよね。荒木さんの歌も聞きたいし、また新しいドラマも見たいし。でも引退されてしまったから、荒木さんのその後のことを知りたいです。
荒木:引退は私が決めたんです。主人はやめてほしいということは全然言わなくて、自分で決めれば良いと。でも、日本の昭和50年代というのは芸能界の仕事と結婚を両立ということは不可能だと言われた時代なんですよ。なのでホリプロダクションの先輩だった山口百恵さんも引退されました。百恵さんを見て私たちは育ったので、百恵さんが21歳で引退をされて私も本当に落ち込んで、もうなんで辞めるんだろうって思っていました。なのに自分も結婚をするんだったらもう芸能界はやめようという風に思って、一切誰にも相談しないで引退するということを決めて、記者会見に臨んで辞めるということを言いました。結婚するなら、妻として・子どもができれば母として、全部自分でやりたかったんです。一人の女性として自分が芸能界を大好きだったし、憧れだった芸能界にデビューをすることができた。そして中国の皆さんにも見てもらって応援してもらった。もうそれは私の中では最高の歴史が作れたわけです。それで今度は自分のことを大好きな人がいてくれるということで、その人に命を賭けて妻として、母として生きるのは、私にとってすごく魅力的だった。
もう息子は結婚したので、二日前に、息子夫婦とランチを食べたんです。その時に息子が言いました。
「あなたは仕事を全部やめて、僕のことを全ての愛情をかけて育ててくれた」と。だからそれはすごくうれしいなって、わかってるんだなって思いました。
もちろん今の時代は、引退をしなくても仕事をしながら子育てをする人もいます。ただ私には23歳の時に大好きだった仕事を辞める勇気、あんなに好きだった仕事を辞める勇気もあったんだっていうことです。それと嫁いだところに義理の母が認知症になってしまって、介護を20年私一人でやった。私は自分の人生の中でこれをやるんだって言ったら絶対にやり通したから私の勝ちなんですよ。
だから仕事も引退はしたけれども、荒木由美子というものは捨てなかったです。
いつも主婦としてやっていても、輝いていなくてはいけない私の人生が輝かなかったら
引退した意味がないんですよ。
蔡:義理の母に20年も介護というのは、壮絶な人生というか、どんな感じでしたか。
荒木:まあ結婚して23歳でしたけれども、二週間後にお姑さんが義理の母が倒れて、私を急にすごく怒ったり、息子のことを私の彼氏だと思ってたり変なこと言う、いつもそれがあるんです。
蔡:でも認知症だとしょうがないところもありますよね。その時は怒ったりしましたか?
荒木:義理の母には病気ですから言い返せなくて、主人の前では毎日のように泣いていました。それで、泣いたら泣き顔になるでしょう?私は笑顔で生活したいから私を笑わせてって言ってたんですよ。
私はもういつも泣いてるから悔しくて悔しくてね、何でこれだけのことを分かってもらえないんだ、愛を返してくれない、ありがとうが分からないんだからやりがいもない。でもどこかで分かってると思うんです、全部がわからなくなっているわけではない、病気だと思いながらもいつか絶対分かってくれる日が来るだろうし、私もこれだけやった愛情はこの人に伝わらない訳がないと思う。だから最後に亡くなる時に挨拶をしてくれたんですよ
。主人もいる、孫もいるのに、私のことだけが由美ちゃんってわかるんですよ。死ぬ前に、私の由美ちゃんと言って、今までこんなに長く私のことを見てくれてありがとうって。だからどうしてそんな挨拶を言えるんだったら、今までそんな病気になっちゃったんだろうって。でも私がやってたことは見えてたし、ありがとうも言えなかったけど、分かってて最後、最後に私の手を握って頭を撫でて撫でて、由美ちゃんにはもう悪いことはもう一つもない、これからは由美ちゃんにはいいことばっかり起こるからねって。これからあるからねって、それを私が守るっていうことですよね。
だから毎日おばあちゃんこういうことありましたって、もう全部報告するんです、楽しいこともつらいことも、夫婦で例えば喧嘩しても。そうすると、主人が私のことをすごく好きで結婚したと思うんですよ、でもその裏には、やっぱりその義理の母、その人が私を選んだ、私が必要だったんだと思います。だから私に挨拶をして亡くなったんですけど、人間っていうのは、認知症になって、生活の中で自分のことすらわからなくなる、息子の事も分からなくなってたけれども、愛情をもらった人は人間どこかで分かっていて、悔しい思いをして嫌いな人のことも分かっている、だから私は絶対嘘ついてはいけない、どんな人に対しても精一杯の愛情、精一杯の笑顔でと思います。
(中略)
蔡:故郷、九州の佐賀県ですよね、
荒木:ぜひ視聴者の皆さんにお勧めしたいです。皆さんご存知ですよね、佐賀県は温泉もたくさんあります、あとは焼き物、有田焼・伊万里焼・唐津焼とたくさんの素晴らしい器もあります。唐津というところの海がものすごい綺麗です。それともうひとつ中国の皆さんが大好きな日本酒です。今日持ってきたんですが、すごく爽やかでフルーティで、ワイングラスでいただくんです。ワイングラスで飲んだ方が香りが立つんです。
蔡:故郷の日本酒を頂きましたので、こちらからも荒木さんに何かプレゼントを差し上げたいと思います。これから元気でご主人様と一緒に幸せな生活になるように、番組のチームの皆さんの気持ちで、中国のブランド品のお酒を荒木さんにも差し上げたいです。五粮液といいます。20年の間に苦労したと思いますけれど、これからもっと幸せな生活、もっと輝くステージにずっと立つようにしていてください。