蔡:先生は東京大学を卒業して、そしてアメリカの方に留学しに行ったという。
鳩山:はい、スタンフォード大学というところに。
蔡:両親の博士まで勉強したとう事で、勉強家といえますよね。
鳩山:一応でも時間かかりましたけど五年かけて一応ドクターは取らせてもらいました。本当はそれで実はオペレーションズ・リサーチという管理工学とか経営工学そういう道を歩んでいたもんですから、本当はその道に行くべきだったとは思うんですが、どうも留学する最後の頃からこの日本という国をですね。アメリカから見ると非常に小さく見えたんですよね。いや面積が小さいですんけど、存在そのものがあまり映らなかった。果たしてこれで良いのかと、世界の中で日本の果たすべき役割っていうものもっとあるんじゃないかという風に思い至りましてね。実はあの話しベタであんまり人前で話すなんて好きじゃなかったもんですから、だから工学の道に行くのが自分が適してると思ったんですが、でもこの好き嫌いじゃなくてやっぱりやるべき、責任として、しかも我が家がそういう政治家を輩出してきたということもあってある意味で政治の世界に慣れている家庭でもあるものですから政治家を目指したいと途中からですねそう思うようになりました、留学中のことであります。
蔡:アメリカで留学時代はやっぱり若いし、多分アメリカであのキャンパスって日本のそういう友達、結構いっぱいいらっしゃるんですか当時。
鳩山:当時はですね日本人がスタンフォード大学で学ぶ方が大変多かったですね。ファミリー全部合わせると百人ぐらい日本人がいまして、今はですね多分一桁台になってしまっていると思います。中国人の方とインド人の方が留学生の大半でですね。日本人が外に出なくなったということは私は由々しき問題だなと思っている。
蔡:自分の国でも十分と思っているから皆さん。
鳩山:何かもうこれから何かをやってろうというような進取の精神というか、そういう気持ちが多分少なくなってるんじゃないか。
蔡:確かに周りの友達、周りの日本人の友人の言うことで、あの中国のそういう子どもたちが今チャレンジ精神がありまして、逆に日本の若者たちは前の日本の方よりはチャレンジ精神がそんなにない。
鳩山:それなりに生きてるからもういいじゃなかみたいなね。そういう受け身的な人生を送るようになってしまってるような気がします、ですからどんどん例えば学業の分野においても中国にどんどん抜かれてしまってますよね。これ私は良くないと思いますよね。
呉:来年は日中平和条約45周年ですよね。その一番最初は1976年に鳩山威一郎先生当時はまだ外務大臣の時に平和条約締結できるように中国の方に行ったり、日本の代表として中国と交渉した。それで1978年に条約ができたそうですよ。
鳩山:鳩山一郎がですね、友愛という考え方を非常にこれこそ世界に広めなきゃいけないと、当時ソ連には行ったんですけども、本当は中国にも行きたかったんですよね。それでその後友愛青年同志会という同志会の皆さん方は日本と中国との間を様々、例えば中国の方に日本に来ていただいて、いろんな研修を受けて送り返していただくということで、中国で頑張っていただくというような。そういう仕事をやっておったんですよね、ですから日中の国交がそれこそ回復されて、あるいは回復される前からかもしれませんけども様々そういう事前運動をしていたと思いますね。そういうものがなければ、うちの親父もまた弟もあの時代からそれより少し後になるかもしれません、けれども日本と中国の間の架け橋になりたいと思って活動してました。
蔡:確かに私はインタビューの為に勉強すれば勉強するほど、ものすごい尊敬の気持ちがいっぱいあるんですよ。日中の友好のために尽力してて、その後も鳩山先生も日中友好のために今までも尽力していただいて本当の尊敬の気持ちがいっぱいあります友愛という二文字は鳩山家としてどうやって今まで伝承しているんですか。
鳩山:まず私が子供の頃ですね。丁度そこのテラスにあります、ベランダでですね、祖父が友愛という字をずーっと書いてるんですね色紙でそれを見てました。で当時まだ小学生の3年4年5年のころですから、私も友愛の何たるかってわかってなかったかと思いすけど、友愛って字をですね、左手が効きませんから、右手だけで書いてました。その字を見ながら、そのうちのじいちゃんはとにかく友愛なんだなって、ことだけは覚えてるんですよね。そこでは政治家になりたいと思った瞬間から、やっぱり祖父の愛した友愛っていう、この考え方こそ広めていかないといけないんではないかなという事に思い立ちまして。当時祖父が作った友愛同志会も友愛協会だったりあるいは今は公益財団法人友愛なってますけど、そこで活動しながらその東アジアの国々特に今ミャンマーなんかが国運が大変なんですけどで大変な状況なんですけども、そういった方々に農業支援をしようとか。あるいは、ベトナムで枯葉剤でやられてかなり手足がご不自由な、お子さん達が多いもんですから、そういう方々に車椅子を提供しようとか、あるいは中国の皆さんにはもう同じキャラクター、漢字がわかる同士ですからそこで日本語を学んでる方々に友愛とは何かって書いていただいて。コンテストやったり、あれはの写真コンクールで友愛というテーマで、写真を皆さん撮ってください。そしてそれをコンテストしましょう、ということを日中でおこなったりして。
呉:希望小学校とかまさに人間愛ですよね、人間愛ですよね、鳩山先生自体がね。
鳩山:実際に愛というものをどういう風に皆が分かりやすく表現できるかということをいろんな形でやろうと思ったんです。
呉:蔡さんはね私と一緒で同じ南京の生まれ。
蔡:私も南京の出身なんです。
鳩山:南京のみなさんには大変。
蔡:先生は元首相として特に南京の市民たちに平和友愛の気持ちがいっぱいあって。本当に嬉しくて、私南京の出身としては、首相としてそして辞任後でも中国の方に奥さんとは一緒に行かれたと思いますけれども、先生と一緒にいらっしゃったんですよね。
呉:1回目2回目
蔡:2回くらいいらっしゃったですよね。南京という街で残っている印象は何でしょうか。
鳩山:南京のイメージですか、私にとりましては、やはり戦争の時に大変悲惨な目に合わしてしまったということで、その南京において日本人として償うことができればという思いで、植林なんかをさせていただいたんですけども、何か南京のためにこれから尽くすことができたらいいなと思ってます。私の弟は南京のお城の城壁の修理、復元のために南京の南京城壁の修理、なんかの仕事を多少やったということだそうなんですよ。友愛協会で、我々も何かそういう仕事できたらいいかなと思っております。今日は実は私は沖縄から戻ってきて、沖縄というのは東アジア、中国とも近いし、他の東南アジアの国々とも近いんですよね、東京よりも、沖縄が中心となってこれからまさに、東アジアの中心としての役割を果たすべきじゃないかと思っていて。実は昨日のアジア麺ロードというのをやりましてね、麺というものが中国にもある、韓国にもあるミャンマーにもベトナムにもどこにもこの東アジアにあると、その麺という共通項の中で、でも一つ一つの国にはそれぞれ個性の違う麺があるので、それをみんなで食べ合おうじゃないかって、それをやった時に実は中国の方が来られていて中国の方なんだけど、沖縄に住んでらっしゃる方なんですけども、是非来年は中国でその麺ロードやりたいっておっしゃって。
蔡:中国で素晴らしい。じゃあ企画しましょうよ、南京でやりましょうよ。
呉:南京の麺が一番メインの美味しいよ。南京で一番おいしいのが陽春麺。隋の都でも陽春でしょ、南京は明の時代の都で。
蔡:上海にも近いし観光もいっぱいできるし一緒に企画しましょう。
呉:来年やりましょう。
蔡:この番組配信する時は旧正月迎えますので、在日中国人はもちろん中国人にご挨拶いただけますか。
鳩山:春節を迎えられて皆さん新しい年で非常に張り切っておられることだと思います、おめでとうございます。中国でお暮らしになってまた春節で色々と活躍される方々、あるいは中国から日本に来て日本で頑張っておられる方、いろいろおられると思います。コロナで大変な時期もあったと思いますし、まだコロナが完全に治ってはいない状況で、それこそ難しいところもあるかと思いますが、でも春節の時にそれぞれの思いで故郷に帰られたり旅行されたりしてよろしいんじゃないかなと私は思ってまして、そういうものを通じて、日本と中国との距離感がまた近づいてくれるといいなとそう思っています。この数年間やはりコロナで日本に来られる方が非常に減ってしまっております。けれども是非春節やあるいは今年一年の中で、ぜひ日本と中国の距離感が縮まるような、そういったお付き合いを皆さん方がしていただくことを心から祈願をしています。まずはおめでとうございます。
(先日、本紙は蔡国平と呉汝俊の協力を得て鳩山由紀夫元内閣総理大臣にインタビューした。)